School life
I
写真詳細のリンク先はこちら→http://coboon.jp/memory.of.ouki/?p=4712
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この年は、「3年生には演劇コンクールは必要ない」との生徒部の方針に異議を唱え、全校集会を催し、学校全体で演劇コンクールの重要性を訴えました。 自分たちの意見が通り、実施された演劇コンクール。6月の黒いカーテンで締め切られた講堂は、むしかえる暑さでした。
この年は、「3年生には演劇コンクールは必要ない」との生徒部の方針に異議を唱え、全校集会を催し、学校全体で演劇コンクールの重要性を訴えました。 自分たちの意見が通り、実施された演劇コンクール。6月の黒いカーテンで締め切られた講堂は、むしかえる暑さでした。
この年は、「3年生には演劇コンクールは必要ない」との生徒部の方針に異議を唱え、全校集会を催し、学校全体で演劇コンクールの重要性を訴えました。 自分たちの意見が通り、実施された演劇コンクール。6月の黒いカーテンで締め切られた講堂は、むしかえる暑さでした。
87年文化祭での、民謡研究部の1コマ(音楽室)です。 当時は音楽系クラブと言えば吹奏楽部、軽音部、民謡研究部がありました。軽音はパンクやハードロック、メタルと主に洋楽が主流で、民研は邦楽というくくりでした。民研では1年生はバンド活動は禁止(確か1年の文化祭までは)で、フォークギターをもって必ず演奏すべし、という事で、今でも自分達世代とは一回り程上のジャンルを空で謳えるのはこのお陰、のように思いますが、当時ははやく、先輩らみたいに講堂で、バンドでライブしたいなあ・・・とうらやみつつ、鴨沂の音楽室でライブをさせられたものです。先輩らのお話を聞いていると、今と比べれば比較にならない程自由だった鴨沂も、この頃より少し以前頃から、徐々にシバリが加えられていたのかな、と感じます。北運キャンプファイヤー等も、勿論学校側で禁止されていました。
このアルバムは私たち1980年の『仰げば尊し』の写真です。当時は3年生は全部で9クラスあり、パレードの様子はその一部です。1枚目の写真は、なんと各クラスの担任の先生!みんな、先生もクラスのテーマに沿った衣装で仮装しています。こうした衣装はすべて、みんなで手作りしたもの。考えてみれば、山車を作ったり、絵を描いたり、衣装を縫ったりと、みんなそれぞれに得意な仕事で何でも器用なもんだったなと思います。
私のクラステーマは「ゴミ地獄」。当時京都で問題になっていた空き缶のデポジット制にするかどうか、増える一方のゴミ問題をテーマに、新聞でも度々取り上げられていた話題だったので『このテーマで新聞掲載を目指そう!』とクラスで一致団結し、見事、京都新聞に写真付きで掲載されました。
1980年度卒業生です。中学校は修学院中学でした。私たちの頃は、前年までは商業科の一部が鴨沂で、ほとんどは洛北高校に入学しました。私も、受験場所も合格発表を見に行ったのも洛北高校でした。ところが振り分けられた先は、この鴨沂高校だった訳です。当時は洛北高校も鴨沂と同じく自由な校風で、合格発表を見に行った時はショックでしたね。学校が見つからないんですもの・・・通り過ぎて、え?あのお寺の門の所が鴨沂なの?という感じでした。 高校生になっていちばん驚いたのは、先生方が我々を大人扱いしてくれたこと。何かを強制されたことはありませんでした。最初に喫茶店に連れて行ってくれたのも、担任の先生でした。 その頃はブランク(休講)も多く、図書館で勉強する人、食堂へ行く人、体育館で運動する人、そして喫茶店に行く人と様々でした。もしかしたら私たち世代頃までが、伸び伸びとさせてもらえた最後の世代だったのかもしれません。はめも外したし、その分責任も伴いました。
「1980年度卒業生です。中学校は修学院中学でした。私たちの頃は、前年までは商業科の一部が鴨沂で、ほとんどは洛北高校に入学しました。私も、受験場所も合格発表を見に行ったのも洛北高校でした。ところが振り分けられた先は、この鴨沂高校だった訳です。当時は洛北高校も鴨沂と同じく自由な校風で、合格発表を見に行った時はショックでしたね。学校が見つからないんですもの・・・通り過ぎて、え?あのお寺の門の所が鴨沂なの?という感じでした。 高校生になっていちばん驚いたのは、先生方が我々を大人扱いしてくれたこと。何かを強制されたことはありませんでした。最初に喫茶店に連れて行ってくれたのも、担任の先生でした。 その頃はブランク(休講)も多く、図書館で勉強する人、食堂へ行く人、体育館で運動する人、そして喫茶店に行く人と様々でした。もしかしたら私たち世代頃までが、伸び伸びとさせてもらえた最後の世代だったのかもしれません。はめも外したし、その分責任も伴いました。
「1980年度卒業生です。中学校は修学院中学でした。私たちの頃は、前年までは商業科の一部が鴨沂で、ほとんどは洛北高校に入学しました。私も、受験場所も合格発表を見に行ったのも洛北高校でした。ところが振り分けられた先は、この鴨沂高校だった訳です。当時は洛北高校も鴨沂と同じく自由な校風で、合格発表を見に行った時はショックでしたね。学校が見つからないんですもの・・・通り過ぎて、え?あのお寺の門の所が鴨沂なの?という感じでした。 高校生になっていちばん驚いたのは、先生方が我々を大人扱いしてくれたこと。何かを強制されたことはありませんでした。最初に喫茶店に連れて行ってくれたのも、担任の先生でした。 その頃はブランク(休講)も多く、図書館で勉強する人、食堂へ行く人、体育館で運動する人、そして喫茶店に行く人と様々でした。もしかしたら私たち世代頃までが、伸び伸びとさせてもらえた最後の世代だったのかもしれません。はめも外したし、その分責任も伴いました。